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2008年度前期試験レポートうp第3弾 
「暴力論」という講義で、これに関する作品を一つ取り上げて暴力について語れ、というテーマ。
今読み返すとちょっと酷い内容なんだけど、この作品がマイナーである以上論点を明確にする為には
どうしてもあらすじを入れなくちゃいけなくて、結果的に作品紹介してるだけじゃんって感じに…orz

SM的要素を絡めて『殺し屋1』とか、格闘技と暴力の境界を探りながら『バキ』or『タフ』とか、
青少年の中にある暴力衝動の表現として『クローズ』とか、ものすごく語りやすいテーマだっただけに、
これでよかったのかという疑問は今でも残っているけど、『TWIM』自体は題材として最適だったと思う。
 



「whose is the world ?」


 (前略)――加えて、みんな否定すると思うんですけど、人間には3大欲求以外に暴力欲もあって4大欲なんじゃないかと思うんです。
毎日地球上で、こんなにも暴力があふれているじゃないですか。社会がいくら暴力性を否定しても、日本が暴力の権化・アメリカに
くっ付いて肯定している限りは、日本人は自己矛盾し続けるんでしょうね――

『真説ザ・ワールド・イズ・マイン』3巻 新井英樹巻頭ロングインタビューより) 


 あらゆる事件、文化、作品などを用いて暴力という行為、概念を多角的に考える―。
単純に興味を抱いて受けた講義だったが、この題目をいざ前にして、一つの疑問が頭から離れなかった。
「これは文学講義ではなくて、社会学講義というべき内容なのではないだろうか」。連合赤軍、死刑論などなど、
現代社会に即した様々なテーマを研究するにつれ、「文学」という二文字が少しずつ遠のいていくように感じた。
それを強烈に引き戻した作品が、冒頭に引用した『ザ・ワールド・イズ・マイン』
(以下『TWIM)であった。

 もともと、暴力論について何か格好の作品はないかと考えた時、常に頭にあったのが『TWIM』のことだった。
しかし絶版になっている為原版の入手が難しく、復刊版であり、加筆・修正が行われた「真説」を購入するのは
本意ではなかった。そんな中で「真説」に新たに収録されたロングインタビューの存在は、思いのほか私を助け
てくれた。異端児・新井英樹の出世作でもあり問題作でもある『
TWIM』は、曖昧な平和を謳歌する現代日本に
対する問題提起でありながら、その意味や結論は個々の解釈に委ねるところがあまりにも大きかったからである。
作品の生みの親である新井英樹の見解、意図を僅かながらも知ることができたことは貴重だった。


 テロリズム、国家の暴力、マスコミの暴力、無知なる民衆の暴力―。ありとあらゆる暴力が、三千頁に凝縮されている。
ここでは、主役であるトシとモンという二人組の連続殺人犯と、東北地方に突如現れた巨大な生物、通称ヒグマドンについて考えてみたい。


 ・キムンカムイか、怪獣か――「ヒグマドン」

 20km弱の津軽海峡を越えて、本州へ降り立った前代未聞の巨大生物ヒグマドン。
その圧倒的な力で家屋や人々を蹴散らしていく様を、単なる獣害と捉えるか、暴力と捉えるか。

おそらくは戦後最大の獣害である苫前三毛別事件に影響をうけたと思われるこの存在は、果たして何のために
描かれたのだろうか。当初、巨大なヒグマとして作中で報道され、マスコミによって「ヒグマドン」という名前を授かった
この生物は、甚大な被害を撒き散らしながら東北地方を南下し、宮城県仙台市にて自衛隊によって捕獲される。
そしてアメリカへと輸送される途中で突如巨大化、急激な膨張はとどまるところを知らず、当初
8m強と目されていた
ヒグマドンは最終的に全長
2000km、高さ50kmの楕円球体へと姿を変えた。太平洋上に陣取りハワイを飲み込んだ
この生物は、アメリカが放った3発の水爆によって無限とも思われた成長を止めた。こう書くとまるで荒唐無稽な話
のように聞こえるが、一笑に付すにはまだ早い。新聞記者の星野とマタギの飯島に、ヒグマドン出現当初からの足
取りを追わせる中で、アイヌの宗教儀礼イヨマンテ、宮沢賢治の『なめとこ山の熊』などの題材をからめてヒグマドン
を神格化させていく。やがて二人はヒグマドンには何らかの意志があるものという結論に達し、星野はその正体を
探る一方、飯島はヒグマドンに純粋な勝負を挑む。

 ヒグマドンの正体、そしてその意志といったものが何だったのか、ついに作中で明らかにされることはなかった。
しかし、『
TWIM』のラストシーンに於ける「破滅」の一端は、確実にヒグマドンによってもたらされたものであった。
ならば、『
TWIM』中のヒグマドンは、世界に引導を渡す破壊神であったのか?それは作者のみが知るところであるが、
恐らく仮にヒグマドンがおらずとも、破滅のラストシーンが変わることはなかっただろう。

ヒグマドンは人間が破滅へと近づく速度を少し速める為の存在であったとするのが、最も妥当な解釈であるように思う。


 ・鬼神、暴君、テロリスト、そして平和の伝道師――「モン」

 人間でありながら、ヒグマドン以上に正体不明だったのがモンだった。その正体不明さは、恐らくモンというキャラクター
に持たせた属性が、あまりにも交錯していたせいだ。一見して異常とわかる言動と風体だけで、強烈な個性が臭い立つ。
登場時にモンに与えられた属性は「本能」だった。この時にトシはモンと出会い、その瘴気に当てられ、無差別爆破テロ
という凶行に向かって走り出す。物語序盤のモンはとにかく凄まじい。圧倒的な力をもって己を行使する。
「俺は俺を肯定する」「…使え。力は…絶対だ」「命は、平等に、価値がない」とトシに説き、ためらいなく人を殺しまくる。
どこか『カイジ』の兵藤会長のような、人命尊重教育へのアンチテーゼを感じる。「人を傷つけても、ワシは痛まない」と
言ったのも彼だ。しかしモンは第
44話、逃亡中に身を潜めた雪山でのヒグマドンとの邂逅を経て、第二の属性を得るに至る。
それは「想像力」だった。他人の痛みを自らの痛みとして感じる―。その呪縛によって、モンは人を傷つけることができ
なくなってしまった。そして大館で出会った阿倍野マリアによって付随された第三の属性、「愛」。物語が加速するに従って、
次々と人間らしい属性を獲得していくモン。終盤に差し掛かり、初めて愛した阿倍野マリアの死を経て獲得した最後の
属性は「悟り」だった。本能、想像力、愛、悟り…これらは全てモンの中で共存しながら、登場時とは全く別のモンを作り
上げていった。そしてモンは、何かを伝道する為に、世界中を駆け回る。

 「抗うな、受け入れろ、すべては繋がっている」「幸福をイメージしろ、そこが未来だ」

「そら、うみ、はな、虹、想い、命の奇跡、豊かな死、…未来」「美しい」

 言葉少なに語るその言葉は、前述した物語前半のものとは全く正反対のものだ。しかし、暴力の連鎖は加速する。
何故かモンの言葉はテロリストに響かない。否、モンの言葉に感動した人々は、何故か暴力を加速させていく。結局、
拡大したテロリズムによって物語は最悪の結末を迎えることになってしまった。


 『TWIM』のラストシーンは賛否両論あり、結末を疑問視する声も多い。しかし、暴力を極限まで描いたからこそ、
この結末になったのだと思う。結局『
TWIM』の主人公はトシモンでもヒグマドンでもなく、人間の持つ力そのものだった
のではないか。モンやヒグマドンは、その象徴としての存在でしかなく、ある意味真の主人公は読者である我々である
とも言える。『
TWIM』世界の住人がやっていたことは、力に対する力の上塗りだけであった。
警察も、国家も、マスコミも、民衆も…。それらの違いは力の種類、法であるか、ペンであるか、銃であるか…という
ことだけである。その暴力の螺旋から抜けていたのは阿倍野マリアと総理大臣・由利勘平の二人。彼らもまた『
TWIM
を飾った魅力的な主人公だった。暴力というテーマを描ききったこの作品に、我々読者は何かを学ぶことができるだろうか。
TWIM』に起こった全ての暴力と、彼らが迎えた悲劇的な結末を是非その目で確かめて欲しい。
そして、改めて今我々が生きる世界を見つめなおした時…


    そこに…素晴らしき世界が見えたなら―― 神はあなただ

(『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』最終巻 最終ページより)